☆ バベルの塔 ☆
頭の中身は幼稚園児とさほど変わらない。ゆえに甘いモノが大好きである。特にチョコとか。先日、例のチョコとかを貰わせられる日に、ゴディバを戴いた(あ、わしってこれでもモテるんですよ。街を歩けば犬とか猫とか絶対ついてくるんです。というか、犬と猫しかついてきません(ToT))。マックナゲットのようにバクバク食って後からその小粒のそれが、一個あたりローソンの大盛り弁当より高いと知った。ロッテ・ガーナの方がおいしく感じられるわしはまだおこちゃまなのだろう。いや、ベビーチョコの方が“ベビー”とついてる分、テンション高なっておいしく感じられるわしは赤ちゃんなのであろう。
アホな前置きはさておき、先日沖縄で外人住宅空き家を丸一日貸し切って遊んだ(そういうステキなシステムの場所があるんですよ)。友人らはゴルフをした後チェックイン、わしはゴルフはやらないので夕方から入る。
テンションを上げる為にリビングのテーブル・椅子の配置を置き換える。椅子は撤去しクッションをテーブル周辺に敷詰め、さらに布団・毛布で“陸地”を創る。国生みの後は、先に撤去した椅子で囲いを作り鎖国政策。冷蔵国へ麦酒等を取りにいく為に出島を追加す。
すき焼きを鱈腹喰った後、酒を飲みながら阿呆阿呆会議が始まる。片仮名表記の方がアホっぽいか。アホアホ会議が始まる。ちっちゃい“ッ”がある方がアホっぽいかも。訂正、アッホアッホ会議が始まる(よっしゃ、これや、こんなぐらいアホやった)。
アナログな壁掛け時計が真夜中の天辺を指す刻に、『ジェンガ』をやった。『ジェンガ』、知ってる?木製の積み木のような物でできた塔から、倒れないようにパーツを引き抜きまたその片を塔の上に積み重ねていくというゲーム。バランスを崩して倒した人の負けや。わしは、飲めば飲む程にそのゲームに関しては滅法強い。飲むと手先の震えはピタリと止まり、妊娠中の母親の骨のようにその塔をスカスカにする事ができちゃったりする。一ブロックで支えられてるフロアを達磨落としの如く弾き抜く、なんて荒技を繰り出した時には自分でも笑ってもうたが(上手いにもほどがあるがな:笑)。
人間は時の流れに殉じて常に積み重ねている。生理的摂取、学習または労働、その積み重ねで得た産物をまた己の身として、新たな積み重ねを続ける。ジェンガはそういった意味でも人間の理を顕すゲームではなかろうか。古代メソポタミアのバビロンの人々は己を天まで届かす目的で階段状の建造物を制作した(『旧約聖書』創世記より)。いわずと知れたバベルの塔である。崩れてしまった事から実現不可能な計画の事をバベルの塔と言う事もある。これは人間が神の元へは決して辿り着けないという事を示唆するものであろう。
人間関係においても同じような事がいえる。人間と人間がお互い同士完璧に理解し合える事など到底不可能な事であるが、人は少しでも相手に歩み寄れるようにと日々積み重ねていく。飲んだり、スポーツしたり、ゲームしたりして。己の発散の為のみに娯楽があるわけではない。友と遊ぶというのはそういう事である。
わしは、寂しがりやであるから人と遊ぶのが好きで、なるべく多くの時間をそういう事に費やしたい。しかし大好きな行為というものは7割に留めておくべきだと思っている。何にでもいえる事だが、熱が高すぎると(エネルギーを注ぎすぎると)溶けて無くなってしまう畏れがあるからだ。甘く繊細なもの程そうである。例えば、冒頭に語ったチョコ。幼い頃、動物の形のチョコを大切にするあまり常に手に握っていて溶かしてしまった事がある。大切なもの程、己との距離を保たなければならない。大人になってからは異性に関する扱いで同じような事がいえるだろう。大切にしすぎて相手を溶かしてやらないようにしなければならない。好きなものに対して注ぐエネルギーが高いわしにとってはちょいと悲しい事ではあるが…。
人間は基本一人だ。己の中で燃焼させるのは全然かまわないと思う。それどころか己の中の燃焼程素晴らしい行為・現象はない。熱を発する前に自らをそれに耐えうる状態に準備が整っておるから大丈夫なのだ。
我々は燃焼しながら死に向かって積み重ねている。わしがジェンガを得意となってしまってるのは、積み重ねてきたものを大切にしたいと思っている顕れなのかもしれない。昔はそうでなかった。砂場で遊ぶ子供のように、砂の城は壊す為に作るものだと思ってた。よる歳は涙腺の緩みと共に確実に内部に変化をもたらしておるようだ。以前のわしを知ってる者なら丸くなったと言うだろう。
崩れた塔の瓦礫の世界を彷徨うのは充分過ぎる程に味わってきた。
もう、そこには戻りたくないのだ。
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